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  • 大野まさき

早乙女勝元さんが亡くなったことにあたって

本日の昼のラジオニュースで、反戦・平和をライフワークにした児童文学作家で東京大空襲・戦災資料センター名誉館長であった早乙女勝元さんが老衰で亡くなったのを知りました。


私が早乙女さんを意識しているのは、早乙女さんの絵本『猫は生きている』を人形劇で映画化したものを、小学2年生の時に観せられたのをきっかけに、平和について考えることとなり、政治に関わる意義、現在、市議会議員を務めるきっかけともなったと言えるからです。

『猫は生きている』の映画はトラウマとなりました。戦争のこと、毎晩空襲に怯えて暮らしていた実態が当時の約30年前にはあったこと等、子ども心に重く残りました。しかも無惨にも映画では登場人物が容赦なく空襲で皆亡くなってしまい、生き残ったのは猫たちだけという物語が何とも言えない印象を残しました。母親が赤ちゃんを助けようと自らが赤ちゃんの覆いとなって焼け死んでしまう描写もありました。現実はさらにもっともっと厳しい実態があったと思われる訳ですが、1976年当時でそうした過去の厳しさ、リアルな歴史を感じ取れるような環境はほとんどなかったように思います。いきなりそんな世界を観せられて、大きなショックを私は受けた訳です。


私は当時、ヤマハ音楽教室に通っていましたが、『猫は生きている』の映画を親に連れられて立川市民会館大ホールで観せられた直後、当時住んでいた武蔵村山にある、卒園した場所でもある「むらやま幼稚園」を借りて「ヤマハ音楽教室」が実施されていましたが、「歌えバンバン」という曲を皆で歌っていた時に、映画を観たショックが残っているなあと自覚していたことを今も鮮明に覚えています。今でもその曲を聴くと『猫は生きている』のことが、歌詞の内容よりも思い浮かびます。多分、戦時でないという幸せを感じながら「歌えバンバン」を歌っているという実感を当時の私は自覚して歌っていたように思います。本当に不思議な思いを噛み締めながら、しかもそれを誰にも言えないまま過ごしてきたように思います。


武蔵村山にはかつて「東京陸軍少年飛行兵学校」がありました。立川基地や横田基地も周辺にあり、ある意味すぐ身の回りに戦争に関わるものがあった環境だったとも言えます。そんなことも何となく感じながら『猫は生きている』と鑑賞したことで、色んな想いがさらに強まったのかもしれません。思えば『ガラスのうさぎ』の映画も立川駅南口にあった「名画座」で観たことも思い出しました。


今日は立川で政治活動ヘルプしましたが、一緒に活動した東町田市議、私よりも16、17歳若い彼女ですが、かつて立川駅北口前(現在のタクシー乗り場、当時はバス降車スペースの辺り、近くに交番もあったように思います。)に義足をつけ、アコーデイオンを弾きながら義捐金を集めていた傷痍軍人がいたこと、私も実際に目にしたこと等も話しました。世代が違うので、言っていることがどこまでわかっていただけたかは分かりませんが、私が政治活動を始めて28年ということから考えても、私が生まれた23年前は戦時中であったという事実が信じられません。


そんなことを思いながら、早乙女さんが一生かけて世の中の人に伝えたいと思ったことを、私も私なりに伝承していく意義を改めて確認した1日となりました。

ご冥福をお祈りいたします。




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